長生炭鉱 その3  山口県宇部市西岐波(にしきわ)大沢

 今は荒野と化してしまった炭住跡を通り過ぎた所に、ポツリと慰霊碑が建っている。それは、出水事故により183名が取り残された海底坑道の上に立つ沖のピーヤの方を向いていた。いまだその地底(じぞこ)から帰らぬ男たちに、何かを問いかけているようだった。

(2005年7月27日撮影)

(2005年7月27日撮影)

 長生炭鉱の出水事故は昭和17年2月3日、太平洋戦争が始まってから2ヶ月後のことである。そのため報道も控えめであったことから世間の目にあまり触れられなかった。いま建っている殉難者の碑も当時の関係者や公民館の人たちによって事故から40年後の昭和57年4月にやっと建てられた。
 その「殉難者之碑」が建つ場所は、長生炭鉱の食堂があった場所であったらしい。そう言われてみると、碑の前がタイルを敷き詰めた床面になっている理由が納得できた。

(2005年7月27日撮影)

 碑文の作者は井上正人氏、碑文の筆は西岐波の長老で元県議会議長の土屋基雄氏による。
 碑に書き記されている犠牲者183人の内137人が朝鮮の人たちだった。その中には戦時中、強制連行されてきた人たちも多くいた。したがって、この碑文ではその歴史が正しく刻まれていないとして、「長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会」というのが新たに結成され、そこに集まる人々により、現地に新たな追悼碑を建立するための運動がすすめられている。(*この取材から10年以上経ち、現在「“水非常”を歴史に刻む会」により新たな慰霊碑が建立されている)
 ちなみに、1990年8月7日労働省は、朝鮮人の強制連行労働者は71,463名であったと発表した。

(2005年7月27日撮影)

 排気口と入気口の役目を持った2本のピーヤ。教えてもらわなければ、これが何であるのか、わからない人も多いことだろう。ましてやその下に、炭鉱事故の犠牲者183名が今もなお引き揚げられることもなくそこに眠ったままでいることなど。しかし、これら事実はこれからも語り継いでいかなければならず、そのためにも、ピーヤの保存が望まれる理由である。

(2005年7月27日撮影)

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