鬼伝説が残る大江山の中腹、大江町仏性寺地区に、かつて京都府下最大の銅鉱山であった河守鉱山跡が残っている。
大正6年(1917年)、千丈ケ原に発電用のダム工事中、藤原氏が鉱脈の露頭を発見したことが鉱山開発の引き金となった。
同年、大江山鉱山と称して銅鉱採掘を始め、本格化したのは、昭和3年、日本鉱業河守鉱業所となってから。盛期は戦後で、
日本鉱業のドル箱鉱山として栄え、昭和30年代竪坑の深度は地下500m、坑道の延総延長は70kmに達しており、昭和41年の
「採鉱概要」によると、従業員219名とある。従業員の住宅がたち並び、山内人口1000名を超える府下最大の鉱山だった。
その河守鉱山跡へは、京都縦貫自動車道 舞鶴大江I.Cを出て、信号のないT字路交差点を右折、さらに国道175号線の
T字路信号交差点を右折してしばらく直進し、二瀬川に架かる橋を渡ってすぐの関信号交差点を右折して、府道綾部大江宮津
線を宮津方面へ約9km直進して行くと「日本の鬼の交流博物館」等へたどり着く。その周辺一帯が河守鉱山があった所である。
二瀬川バス停前の案内図
二瀬川バス停前にある大江山登山口。ここが当時の河守鉱山への入口である。
二瀬川バス停から少し道を上がった所に鉱石の発見者 藤原吉蔵氏の記念碑が建っている。
同記念碑には、所々判別し難いながらも、「河守鉱山 元称 大江山鑛山 大和人 坂口定市 林平造 両氏 創始 其事業後
昭和三年八月移管 千日本鉱業経営 改称 河守鉱山 本鉱発見者 藤原吉蔵氏 温厚誠実 社会公共福利 大正三年五月 偶
有霊感志 千探鉱門 発没頭 大正十二年八月不幸水禍 同十五年事業益発達 以 永頌其徳云」と記されていた。
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