(補足)
 上記ビラの文中、「3月29日たまたま第三者との紛争を惹起した結果発生した久保さん刺殺事件を最大限に利用し宣伝に之努めて いますが、この事件は今次闘争とは本質的に関係のないものであり、又当局の調べによっても単なる不祥事件である事が明らかで あります。」という点について、朝日新聞西部本社編「すみとひとのたたかい 石炭史話」(昭和45年1月8日初版)は次のとおり 歴史を語る。

 「昭和35年3月29日昼すぎ、トラックを先頭に13台のタクシー、最後にバスという車のパレードが大牟田、荒尾両市の三池炭鉱 社宅街を回った。新旧労組が衝突し血に染まりながら三川鉱生産再開が強行された翌日のことである。山代組の組員ら120人。角刈 り、色めがね。なかには警察が明らかに職業的ヤクザとみた20数人の若い男たちもいた。
 炭住で車から降り、携帯マイクで叫んだ。
 「第一組合は話合いに応ぜず暴力をふるった。われわれは各県の同志を集めいまから暴力には暴力で対抗する」。
 三池労組員に対する示威であった。
 その直後、荒尾市の四山鉱正門前でピケをはっていた三池労組員の久保清さんが、このパレードのなかの暴力団員に刺殺された。
 三池労組は久保さん事件を「会社か、三井関係商社を中心に結成されていた大牟田再建市民運動本部と関係のある暴力団のしわざ」 とみているが、市民再建運動本部長だった円仏氏(前・大牟田市長)は、「とんでもない。三井に忠義ぶってさい銭をかせごうとし た暴力団が勝手にやった犯行だ」と強く否定する。
 犯人はつかまり、偶発的な事件として解決したが、血を呼んだパレードをだれがお膳立てしたか、明らかになっていない。
 だが、次のような事実がある。三池争議終盤のホッパー決戦を控えた7月に入って、三井の各事業所を通じて「いれずみ部隊」と 呼ばれた荒くれ者が三池に動員されたのである。その数ざっと千人。
 三井のある重役は、この事実を認め「スイカを持って陣中見舞いに行ったら、いれずみ男たちに、包丁が足らぬとすごまれ、背筋 が凍る思いをした。騒然とした空気をつくり警察力を引出すための手段だった」と語る。
 任務は警察、会社側の援護。給与は日額で隊長1500円、班長1300円、隊員1000円。
 クリカラモンモンのいれずみ男たちは裸になってピケ隊をにらみつけ、ものものしい彫りものの展示で威圧し「暴力で争議をやめ させる」と勇んでいた者もいた。
 労働法などが整備されて15年もたっていた三池争議でも大正、昭和初期と同じように、暴力団などの外部団体がそのかげにいたと いうのは信じがたいことだが、ともかく久保さんが暴力団に刺殺されたのは厳然たる事実であった。

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