三井田川六坑のボタ山  福岡県田川市  (2004年8月4日撮影)

 ボタ山は、中学や高校を卒業してすぐ、大阪・名古屋・東京方面等へ集団就職していった子どもたちや、ヤマの閉山で県外へ移らざるを得なかった元炭鉱労働者一家の象徴でもあった。
 時が経ち、懐かしの廃鉱も炭住も、また、近所のおじさんやおばさん、友だちなど、知り合いもいなくなり、すっかり町がよそよそしく変わっても、残されたボタ山が、故郷に帰る人々を温かく迎えたに違いない。

 「集団就職」という言葉は昭和29年に開始された「集団就職列車」から生まれた。昭和39年10月に開催された東京オリンピッ ク前後の高度経済成長の真っ只中、労働省が中卒・高卒の労働者を「金の卵」と呼ぶようになり、昭和38年〜昭和40年の3年間で約23万人が都会へ流れていった。

 けっして都会でもないが、紡績工場があった滋賀県彦根市にも、昭和40年前後、毎年3月になると、東北方面の少女たちを乗せたたくさんのバスが連なって来ていたという。

三井田川炭鉱六坑のボタ山 (田川市石炭資料館の話)

 

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