朝鮮人炭鉱殉職者之碑 福岡県田川市川宮 法光寺

 田川市にある法光寺の墓地に「朝鮮人炭鉱殉職者之碑」なるものがある。
 戦時中、この地に強制連行され、タダ同然に炭鉱で働かされて亡くなった朝鮮の人たちを供養した慰霊碑である。昭和50年1月建立された。その当時、わが同胞の遺骨を国へ持ち帰りたいとする朝鮮総連と、田川で死んだのだからその地に慰霊碑を建ててほしいとする大韓民国居留団との確執があったが、法光寺住職が仲を取り持ち、ここに慰霊碑を建立し供養していくことで決着した。
 「毎年お盆になると供養しているが、他所からの参拝客はなく、時々修学旅行の生徒たち等が歴史探訪として訪れる程度」と住職は語る。

朝鮮人炭鉱殉職者之碑(2004年8月3日撮影)

 「1910年、日本は朝鮮半島を統制下に治め、以後1945年の敗戦まで植民地として支配を続けました。特に1931年から日本が行なった15年戦争のために国内の労働力が不足し、この筑豊においても石炭採掘の労働力として約15万人の朝鮮人が強制的に連行されてきました。以後1945年までの強制労働と劣悪な環境の中で約2万人が坑内事故や病気で亡くなられました。
 この殉難碑には、このような過酷な歴史を生き、祖国の山河や親族に再び会うこともできずに無念のおもいで亡くなっていかれた朝鮮人の遺骨が安置されています。ここに集う者、皆共に歴史の事実を心に刻みたいものです。
 「寂光」は、お経に「常寂光土」− 常にやすらかな光に満ちた世界 − いわゆるお浄土のすがたをあらわした言葉です。

 1975年、法光寺鉱害復旧に際して殉難碑建立以来、絶え間なく各地からの参拝者があることを鑑み、ここに改築して永代の供養に付し、あわせて日朝・日韓の親善と国際社会の平和を希うものです。   1997年3月 再建  」

 * 先の案内板の中にある「約2万人が・・・」という数字に関しては実際は「数千人」だったのが事実のようである。これを下書きした人ものちにその誤りを認めているという。しかし、その訂正までには現在も至っていない。
 「こういう案内板をそのまま全て鵜呑みにしてはならない。歴史は自らも調べてみる慎重さが必要だ」と、ある史実家は指摘する。

横嶋炭坑殉職者之碑(2002年7月29日撮影)

 横嶋炭坑の殉職者を供養した「弔魂碑」。明治45年4月20日建立。隣りに建立されている朝鮮人炭鉱殉職者之碑とは別もの。
 「同寺の裏山の向こうが昔"横嶋"と呼ばれていた所で、横嶋炭坑があった。現在同地は"新生町"と名を変えている。」と住職は語る。
 横嶋炭坑は明治から大正にかけて稼動されていた短命な小炭鉱であったらしい。その後の記録に残るような大きな炭鉱事故はなかったようである。

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