天道炭鉱  福岡県嘉穂郡穂波町楽市 (2005年7月29日撮影)


写真中央が大将陣山。その左が明治天道炭鉱のボタ山。(昭和58年発行福岡県航空写真集より)

 「穂波町ものがたり 炭鉱編」という本の中に、「大谷坑の道を挟んで東側に墓地があり・・・炭坑で働いていた人たちの無縁墓・・・この墓地を天道炭鉱がとりまとめ、大将陣の東側上がり口の近くに大きな墓碑を建てている」という箇所がある。
 その場所を訪ねてみたいーそう思った私たちは、「穂波町ものがたり」を基に大将陣山東側を歩いた。そして近所の人に聞くと、「それはあの辺」というので、大体の位置は判るのだが、そこへ行く道がどうしても見つからない。「穂波町ものがたり」を作成した穂波町教育委員会に尋ねても「実は私も行ったことはないのです」と言う。

 その本によると、大将陣山(標高112m)周辺における石炭採掘は明治20年代に入ってから。
 日清戦争(明治27年〜28年)後の明治29年から30年頃にかけて、楽市炭坑、西ノ浦炭坑、太郎丸炭坑、久保白炭坑等の小ヤマが林立していった。しかし日露戦争(明治37年〜38年)後、炭鉱は竪坑時代に入り、機械化され、それについて行けない小炭坑は姿を消していった。
 昭和10年、野上辰之助による野上炭鉱天道鉱業所が開坑。昭和12年4月頃、新東邦炭鉱株式会社に譲渡合併。昭和14年再び野上鉱業株式会社に売却。昭和17年にはまた再び東邦(とうぼう)炭鉱株式会社に譲渡。
 昭和20年5月、国の政策に従って明治鉱業が東邦(とうぼう)炭鉱を買収。昭和29年、大栄鉱業株式会社に譲渡。大栄鉱業株式会社大陣炭鉱として昭和40年まで続いた。そしてこれが天道周辺炭鉱の最後となった。
 小ヤマの炭の積出し拠点として明治34年12月から営業を開始し、昭和25年頃は年間60万人の乗客が乗り降りしていた天道駅も今は無人駅と化した。

 現在、ボタ山も取り崩され、炭鉱の面影はほとんど見られない。そんななか、無縁墓の探索をあきらめかけていたとき、ひとりの元炭坑夫に出会った・・・。

戦地から帰国後、天道炭鉱に入ったという酒井さん。天童炭鉱の墓碑の場所を教えてくれた。その足元には石炭トロッコの車輪が。

酒井さん宅近くに天道炭鉱の墓碑へ至る入口があった・・・

野上天道鉱業所の墓碑

 「今は行かないほうが無難」と酒井さんに止められたが、私たちは草木生い茂る藪の中へ入った。薮蚊に襲われながら数十メートル進むと「大きな墓碑」が目に入った。その周辺には炭坑で働いていた人たちのものと思われる無縁墓もあった。穂波町教育委員会も知らなかった場所である。後で知ったことだが、ここは第二豊満炭鉱(楽市炭坑系統)の坑夫納屋跡でもあったらしい。

「昭和10年8月建立 野上天道鉱業所」とある

大将陣山頂上付近に残る天道炭鉱時代の上水道用タンク

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