犬上炭鉱  滋賀県犬上郡多賀町富之尾1204

 名神高速道路彦根I.Cから国道306号線を南下約6キロの所にある敏満寺中交差点を左折し、 犬上川に沿って約2.5キロ行くと、富之尾集落にたどり着く。ここからさらに東北方へ約500メートル、西琳寺を過ぎた辺り に犬上炭鉱跡がある。

 犬上郡多賀町は犬上炭田と呼ばれ、富之尾炭鉱、若林炭鉱等4つの炭鉱が操業していた。その中でも犬上郡大滝村富之尾 (現・犬上郡多賀町富之尾)に所在する犬上炭鉱は、昭和36年の閉山までに5万トンという出炭量があり、最大の炭鉱であ った。

 1999年9月9日、昭和の採炭から閉山までを番頭役として働いていたという富之尾村の多林喜一郎さん(88歳)を訪ねた。
 その多林さんの話によると、大正7年、信州銀行の頭取であった児玉彦兵衛という人が犬上炭鉱を最初に開坑し、同9年 まで木質亜炭を採掘。一旦中断後、ヤマの経営は、東京の「青木」と「斎地」に権利が移り、青木の親戚関係であった鐘 紡本社重役から資金5万円を借金して昭和16年3月採炭再開、採掘は昭和36年8月まで続いた。最盛期、従業員は100人程い た時もあったといい、地元からはもとより、秋田・四国・佐賀からも人が集まった。多林さん自身、各地へ募集に歩いた という。
 住まいとして、ヤマに一棟の飯場があって20人程が住んでいた。採掘は手掘りで、幸い人身事故は無く、昭和29年9月、 ジェーン台風により一部崩落しただけだったという。
 採掘していた木質亜炭は、本来の石炭と違って質はよくなかったが、戦時中の燃料不足で石炭に代わって重宝され、彦 根市内の鐘紡や近江絹糸、東邦レーヨンなどの各工場に出荷していたことなどを語ってくれた。 

(2004年11月撮影)

(2004年11月撮影)

 犬上炭鉱跡と言っても、現在それらしきものは残っていない。しかしよく探せば、全く何も ないわけでもなく、その名残を見つける時もある。名もない小さな神社に、ここに炭鉱があったことを偲ばせる記念碑が あった。

(2004年11月撮影)

 「斎地」というのは、犬上炭鉱を経営していた人の名前である。ヤマの安全を祈願して碑を 建てたのだろう。

(2004年11月撮影)

 同神社の近くに竪坑があって、鳥居の向こうに見える林の中へ坑道が続いていた。坑道の上 は現在田畑になっているが、当時はそこをトロッコ軌道が走っていた。昔、その坑道が陥没して田畑が沈むという鉱害が あったという。

(2004年11月撮影)

 農道から林へ架かるレール跡を思わせるような橋。その向こう数十メートル先に坑道跡がある。

陥没して出来た深さ約2メートルの粘土質な縦穴(2004年11月撮影)

のぞいてみると坑道が続いている(2004年11月撮影)

(1999年9月9日撮影)

 先の犬上炭鉱から数キロ北へ離れた「犬上郡多賀町四手」という所に「若林炭鉱」があった。地元の人の話では、閉山してもう50年は経つ、ということであったから、昭和20数年までは稼働していたようだ。この地こそ、全くその当時の面影はない。ただ、山肌から水が湧き出ている所があり、坑口があった場所だろうかと想像するだけである。

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