大江山ニッケル鉱山  京都府与謝郡加悦町滝 (2006年2月6日撮影)


 滋賀県彦根市から車で国道27号線を経て舞鶴若狭自動車道・綾部宮津道路を利用し約3時間、 国道176号線沿いにある「道の駅シルクのまち・かや」にたどり着く。その道の駅と、隣接の加悦SL広場が大江山ニッケル 鉱山があった場所である。

道の駅シルクのまち・かや周辺案内図  

日本中国悠久友好平和之碑と3本の煙突

 道の駅の売店から山手を望むと3本の煙突が見える。ここに大江山ニッケル鉱山があったことを 物語る唯一の遺構である。

 「1930年代初頭に良質のニッケル鉱が発見され民間企業による採掘が始まりました。第二次世界大戦中の 最盛期には国策としておよそ3400人が働き、1000人を越す外国の人たちが強制連行されて労働に従事しました。
 終戦後まもなく閉鎖となり、広大な跡地や大規模な施設・設備は企業によって年次的に解体され、1993年の積み出し場を最後 に取り壊しが終了しました。そして、山手に残る乾燥場であった3本の煙突だけは、鉱山跡の証とともに、戦争の傷跡としてここを 訪れる人たちに当時のことを風化させないようにと残されました。現在、煙突周辺は木などが生い茂っており煙突以外のものはその 跡を確認することは難しくなっています。」
(加悦町役場 企画情報観光課 企画係)

 道の駅構内の片隅には、「日本中国悠久友好平和之碑」が建立されている。強制労働により亡くなった12人の中国人の慰霊のため、 1994年9月、京都府日本中国友好協会が建立。

 第2次世界大戦時、同鉱山には連合軍捕虜700人、強制連行された中国人200人、同じく強制連行された朝鮮人150人が鉱山で働かさ れていたという。
 朝鮮人労働者については、昭和19年の京都府特高における資料によると、「管下在住朝鮮人は舞鶴・宮津方面に約1万人」「大江山 鉱山には383名の朝鮮人労務者を移入」とあり、「今日までに292名が逃走し其の他発見逮捕した者僅かに42名に過ぎない状況」と 記録されてもいる。また、「大江山鉱山の華人労務者が2名逃走し捕獲迄約30時間を要した」ともあり、如何にこれら強制連行され た者に対する取り扱いが苛酷であったかがこれら資料からも伺えられる。

 その生き残りの中国人たちはすでに70〜80歳以上になり、「生きているうちに日本政府と企業から謝罪の言葉をほしい」として、 1998年8月、京都地裁に提訴した。そして2004年9月29日、日本冶金工業(東京)が解決金として計2100万円を支払い、大阪高裁で一部 和解が成立するに至った。
 しかし、同じように強制連行されていても、中国人はまだ戦勝国の人民として扱われていたが、戦勝国として認められなかった朝 鮮の人たちは、その後の補償は現在もなおうやむやにされている。

 

日本中国悠久友好平和之碑の裏側  

大江山ニッケル鉱山の乾燥場跡  

 国道をはさんで道の駅の真向かいに加悦SL広場がある。同SL広場の現在の事業主はカヤ興産 であるが、その前身は加悦鉄道鰍ナあった。

 加悦鉄道は大正14年丹後地方の町民823名により設立された。翌15年、国鉄の連絡駅・丹後山田駅と加悦鉄道・加悦駅を結ぶ 5.7キロが開業。以後、村人の足としてはもちろんのこと、地場産業であった丹後ちりめんの輸送に活躍した。

 昭和14年、大江山でニッケル鉱石が発見され、その輸送も担うことになり、翌15年日本治金専用線が出来た。昭和18年、大江 山ニッケル鉱業鰍吸収合併した日本冶金工業鰍ヘ加悦鉄道も吸収。しかし、やがて時代も車社会となり、昭和60年、加悦鉄道 は60年間にわたる歴史に幕を降ろした。

 現在、その加悦鉄道跡は加悦岩滝自転車道(総延長12.2キロ)として生まれ変わり、ニッケル鉱山の専用線として鉱石などの 積み降ろしがおこなわれていた場所も、カヤ興産梶i旧加悦鉄道)が経営するSL広場となった。

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