日本鉱業河守鉱業所 その1  京都府加佐郡大江町仏性寺 (2004年11月28日撮影)


 鬼伝説が残る大江山の中腹、大江町仏性寺地区に、かつて京都府下最大の銅鉱山であった河守鉱山跡 が残っている。

 大正6年(1917年)、千丈ケ原に発電用のダム工事中、藤原氏が鉱脈の露頭を発見したことが鉱山開発の引き金となった。 同年、大江山鉱山と称して銅鉱採掘を始め、本格化したのは、昭和3年、日本鉱業河守鉱業所となってから。盛期は戦後で、 日本鉱業のドル箱鉱山として栄え、昭和30年代竪坑の深度は地下500m、坑道の延総延長は70kmに達しており、昭和41年の 「採鉱概要」によると、従業員219名とある。従業員の住宅がたち並び、山内人口1000名を超える府下最大の鉱山だった。
 主な採鉱物は黄銅鉱で、他に硫化鉱、クローム鉄鉱、銀鉱があった。ここで精鉱し、大分県佐賀関製鉄所へ送られていた。 昭和44年、折からの鉱山合理化策の一環として休山。残った鉱山諸施設を撤去し、昭和48年に完全閉山。
 なお、現在の青少年センターから山手へ約1kmの所、及谷には、昭和9年から同20年の終戦まで、兵器生産に欠かすこと のできなかったモリブデン(水鉛)を採掘していた仏性寺鉱山もあった。
 閉山後、一時荒廃していた河守鉱山跡地は「酒呑童子の里」として再生、大江山観光開発の拠点として生まれ変わった。 その中核施設として、国や府の支援のもと建設されたのが「日本の鬼の交流博物館」と京都府青少年山の家グリーンロッジ。 過疎化の進行によって崩壊の危機を迎えた村々を、先祖の残してくれた鬼伝説によって、衰退に歯止めをかけたいという山村 振興策でもあった。(両丹日日新聞WEB両丹より)

 その河守鉱山跡へは、京都縦貫自動車道 舞鶴大江I.Cを出て、信号のないT字路交差点を右折、さらに国道175号線の T字路信号交差点を右折してしばらく直進し、二瀬川に架かる橋を渡ってすぐの関信号交差点を右折して、府道綾部大江宮津 線を宮津方面へ約9km直進して行くと「日本の鬼の交流博物館」等へたどり着く。その周辺一帯が河守鉱山があった所である。

二瀬川バス停前の案内図  

二瀬川バス停前にある大江山登山口。ここが当時の河守鉱山への入口である。

 

二瀬川バス停から少し道を上がった所に鉱石の発見者 藤原吉蔵氏の記念碑が建っている。  

 同記念碑には、所々判別し難いながらも、「河守鉱山 元称 大江山鑛山 大和人 坂口定市 林平造 両氏 創始 其事業後  昭和三年八月移管 千日本鉱業経営 改称 河守鉱山 本鉱発見者 藤原吉蔵氏 温厚誠実 社会公共福利 大正三年五月 偶 有霊感志 千探鉱門 発没頭 大正十二年八月不幸水禍 同十五年事業益発達 以 永頌其徳云」と記されていた。
 藤原吉蔵氏は地元出身者で、昭和11年、地元の人の手により同記念碑が建てられたという。 

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