新目尾炭鉱 福岡県鞍手郡鞍手町永谷(2007年4月3日撮影)
新目尾(しんしゃかのお)炭鉱、1961(昭和36)年閉山。経営権は、1912(大正元)年から1923(大正12)年
までの間の古河鉱業(現・古河機械金属)から、その後は藤井鉱業、日満鉱業などに移りかわっていった。
鞍手町は1955(昭和30)年1月に剣町・西川村・古月村が対等合併し発足したもので、それまでは、新目尾炭鉱
があった場所は鞍手郡西川村大字永谷と呼ばれていた。
現在、鞍手町の県道沿いにある九州ケース工業が建つ場所に、かつては新目尾鉱業所の事務所があった。
戦時中(昭和15年頃)は約1000人規模の炭鉱で、その内の約500人が強制連行されたりしてきた朝鮮人坑夫たちで
あった。
その根拠は福岡県特高による昭和19年1月末現在の記録によるもので、1268人の朝鮮人が日満鉱業に移入
され、内854人が逃走、途中97人が捕捉され引き戻されたとある。ちなみに福岡県全体では昭和20年8月現在で
17万人もの朝鮮人が強制連行されている。
その鉱業所事務所の東隣の西川村大字新延(にのぶ)に新目尾炭鉱住宅があって、同所から西へ約1キロの地点に
位置する慈光山真教寺の奥山中の西川村大字永谷に坑口などがあった。
そのほか永谷地区には東西につらぬく1本道の両側山々に、泉水(せんすい)炭坑など、1960年代まで中小の
炭鉱がひしめいていた。
右写真は、新目尾炭鉱住宅があった場所である。地元の人は新延地区のことを「どくたんだ」と呼んでいた。
現在はモダンな町営住宅に生まれ変わっており、炭鉱住宅当時の住民はもういないという。
炭鉱作家 上野英信一家がその炭鉱長屋に移り住んだのが閉山から3年後の1964年3月。上野英信は
京都大学中退後、自らも長崎や筑豊の炭鉱で働き、中小炭鉱に生きる人々の生き様を記録し続けた。
彼もまた炭鉱住宅を愛してやまなかったが、同人没後(1923〜1987)、老朽化もあってその自宅は子供の手
により建てかえられた。しかし、その位置は今もかわらない。
九州ケース工業あたりから県道をはずれて右に入ると、古い家並みが連なる街道となる。その中心ほど右手奥に、
浄土真宗本願寺派慈光山真教寺がある。上野英信の著書「廃鉱譜」(1978年筑摩書房発行)の中にも登場
する寺院である。
その本の中で「この寺には、炭鉱の犠牲となった数多くの労働者が葬られているが、とりわけ哀れをさそうのは、いま
なお身もともわからなければ、ひきとり手もないまま放置されている朝鮮人労働者の遺骨だ。その数は、この寺だけで
も32柱をかぞえるという」と語られているとおり、同寺院は近年まで、無縁仏となった朝鮮人坑夫等の遺骨を預かり
供養していた。
このことに関して現在の住職は、「時期はハッキリしませんが、私が小中学校生の頃、北九州市の在日の牧師さん
からの、身元のわかる分については遺族に返し、わからない分についても合同で祀るからという申し出に対して、数十
体の朝鮮の方の遺骨を渡しました。マスコミも取材に来ていたと記憶しています。」という出来事があったことを語って
くださった。
現在のご住職は50歳代、どっしりとした体格ながら親しみのある人柄だった。そのご住職から「私はこれまで人を
山に案内したことはないが、わざわざ滋賀県から来られたのならば」と言いながら炭鉱跡への道案内をいただいた。
そして作業着に着替えたご住職を先頭に我々は石炭搬送のエンドレスであったという山道を上っていった。
なお、同エンドレスは現在の県道を越えて九州ケース工業の裏山まで続いていたそうで、その辺りに現在もボタ山
があるという。
左写真は五右衛門風呂の釜である。「ここは住居跡で、石炭をトロッコで運ぶ荷役仕事の夫婦が住んでいた。
旦那の方は酒に酔いつぶれるとよく寺の前で寝っころがっていた」と話す。
炭鉱跡への道は無秩序に生えた大竹で覆われ、訪れる者を拒んでいるようだった。足元にはボタ石がごろごろと
転がっていた。石垣も残っている。それらはこの地に炭鉱があった証拠でもある。
30分ほど歩いただろうか。薄暗い竹林から抜け出たかのように目の前がパッと明るくなり、平坦な場所にたどり着く。
正面に炭鉱関係の残存物が目につく。そしてこのあたり左右に坑口が2箇所あった。
そのひとつの坑口跡前に立つご住職。坑夫たちが出入りした入坑口であったと説明する。少年時代、同級生と
坑口の中へ入ったりしてよく遊んだという。
同級生の中にはその後家族と共に朝鮮へ帰国していった友もいたと言い、「わがふるさとにもこういう炭鉱があって
強制連行されたりしてきた朝鮮の人たちがいたことを他の人にも知ってほしい」。そう語る言葉には実感が込められていた。
「閉山時、炭鉱からたくさんの無縁仏となった遺骨を預かった。中には、まだよく火葬されていない子供の遺体を
ダイナマイト用木箱に入れて『後でまた取りにくるからその時まで預かってほしい』と置いていった者もあったが、いまだ
引き取りがない」とご住職はいう。
坑口には直接彫りこまれた炭鉱名がまだ残っていた。読みづらくはなっていたが、右から左に「新目尾炭砿」と
刻印されていたことが伺えられる。
二つ目の坑口跡。その入口は閉じられていた。おそらくここから石炭が運び出されていったのだろう。
現在は深い竹薮に覆われ、歴史から忘れられたように静まりかえっているヤマも、かっては「圧制ヤマ」と呼ばれて
恐れられた時代もあったらしい。
耳を澄ませば「ここで生きてきた私たちの歴史を忘れないでほしい」というつぶやきが聴こえてくるようである。
今回、貴重な体験をさせてくださった真教寺ご住職と筑豊の先生、友人に感謝する。
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