三菱飯塚炭鉱 その2  福岡県嘉穂郡穂波町平恒

 三菱飯塚炭鉱の跡地は、炭鉱離職者の就職対策や子弟の地元採用をねらって飯塚工業団地として生まれ変わった。この敷地内に炭鉱の守り神、山の神社跡や飯塚炭鉱災害犠牲者の慰霊塔があり、住友忠隈炭鉱のボタ山も遠望できる。また、所々に旧炭住も残されている。

平恒 山の神公園(2005年7月29日撮影)

 飯塚炭鉱の山神社は、飯塚鉱業時代の昭和8年の春、坑内や坑外事業場の合理化にともない従来各坑ごとに奉祀(ほうし)していた山の神を一ケ所に合祀(ごうし)することになり、この丘陵の上に社殿を設けて合祀祭典を執り行った。これが山神社のはじまりとされています。
 その後、三菱鉱業時代(昭和11年〜36年)を経て昭和41年の飯塚炭鉱株式会社での閉山まで、炭鉱の守護神を祀る神社として従業員の信仰を集めました。
 毎年春の山神社祭(ドンタク)は、秋の従業員運動会とともに飯塚炭鉱の2大行事として仮装や踊りなどの余興で賑わい、従業員の慰安に大きな効果をもたらしました。
 山の神は、古くは稲荷大明神を信仰し、後に大山祇神(山の産業の神)、産土神(人の生まれた土地の守護神)、大地主神を祀ったといわれています。(穂波町教育委員会)

弔魂碑(2005年7月29日撮影)

 弔魂碑の裏には「昭和8年10月建立 飯塚鉱業所」と記されてある。その右横には「三菱飯塚炭鉱跡」の記念碑が建っている。

 昭和16年、第2坑で死傷者13名の落盤事故、同18年、同所で死者6名の落盤事故、同19年、同所で死傷者13名のガス燃焼事故、同年、続いて新坑で死傷者51名のガス爆発事故が発生した。戦時中であったゆえんか、その死傷者51名のうちほとんどが、朝鮮人坑夫であったことは当時発表されなかった。

山神社からボタ山を望む(2005年7月29日撮影)

旧炭住(2005年7月29日撮影)

飯塚坑橋。昭和10年3月竣工。(2005年7月29日撮影)

昭和の「和」の文字が逆になっているのがおもしろい
(2005年7月29日撮影)

BACK