住友忠隈炭鉱 その1  福岡県嘉穂郡穂波町忠隈


 忠隈炭鉱は、明治18年10月から麻生太吉が経営に着手していたが、明治24年と翌25年に続いた大水害により甚大な損害を受けたうえに、大断層に突き当たって出炭不能となり資金も底をついて苦境に立たされた。それを明治27年4月、住友が麻生太吉から買い上げ再開発した。それから70有余年、住友忠隈炭鉱は昭和36年9月30日閉山。その住友忠隈炭鉱を継承した第二会社の忠隈炭鉱株式会社も、昭和40年8月20日鉱業権を放棄。こうして忠隈炭鉱は完全に閉山した。
 その間、明治44年6月1日の炭塵ガス爆発により死者73名、昭和7年のガス爆発により死者18名、昭和11年4月15日の人車暴走により死者57名、昭和24年に落盤事故で死者15名、昭和27年の落盤事故で死者5名を出した。そのことを考えたとき、ボタ山はそれら死者たちの慰霊塔であると言っても過言ではない。

キハ40 7056(2004年8月4日撮影)

 2004年8月4日、JR鹿児島本線原田(はるた)駅から筑豊本線桂川(けいせん)行きの気動車キハ40 7056」に乗り換える。若者が熱心に同列車の写真を撮っていた。「こういう気動車は最近ではめずらしい」とか。単線で本数も少なく、乗客もまばらだった。

 気動車とは、国語辞典によると「内燃機関によって運転する鉄道車両」とある。電力で走る電車とはまた違うらしい。

住友忠隈炭鉱のボタ山(2004年8月4日撮影)

 穂波町東部にそびえる旧住友忠隈炭鉱のボタ山。JR筑豊本線 新飯塚駅付近踏切から撮影。その美しさから「筑豊小富士」とも呼ばれている。三つの峰からなり、標高141.3メートル、113メートル、138.5メートルの三炭山が並んで立ち、周囲2キロの広さである。
 ボタ山は、鉱山保安法で正式名を「捨石集積場」と呼び、坑内から採掘された石炭に混じって出てくるボタ(硬石)をピラミッド状に積み上げたものである。
 炭鉱労働者は、戦争中は産業戦士、ツルハシ戦士、そしてついには採炭特攻隊と称され、戦後においては復興戦士と名を変えながら、大増産のため過酷な労働を強いられていった。特に戦時中は労働力不足から、強制連行されてきた朝鮮人、中国人、また、戦時捕虜までも動員された。
 そこには無理がたたって落盤事故等による死者も多く発生し、そのことからボタ山には、年輪1メートルごとに尊い犠牲者の霊が眠ると言われている。それは、ヒロシマの原爆ドームにも似ているとまで語る人もいる。(穂波町教育委員会発行「穂波町ものがたり」参照)

衆魂之碑(2005年7月27日撮影)

 常楽寺忠隈分院の脇から上がって行くと墓地があり、その一角に高い石柱の慰霊塔が建つ。目前にはボタ山が迫っている。慰霊塔には「明治32年6月建立 衆魂之碑」と刻まれている。
 炭坑夫の中には死亡しても身寄りがわからない人も多々あり、そういう人は無縁仏として常楽寺忠隈分院で供養し、遺骨を分院の上にあった納骨堂に納めた。そこに忠隈炭鉱が「衆魂之碑」を建立した。(穂波町教育委員会発行「穂波町ものがたり」参照)

(2005年7月27日撮影)

 藪の中に腐りかけた杭が2本立っている。最初これが何を意味しているのかわからなかった。しかし、その時足元に何か引っかかるものがあり、よく見るとそれは花筒だった。お墓を踏んでしまっていたのである。

無縁墓(2005年7月27日撮影)

 よく見ると、他にもボタ石だけの簡素なお墓もあった。地元ではこれを、「戦争中、強制連行により炭鉱で働かされていた朝鮮の人たちのお墓だ」と言う人もいた。しかし、その資料は見つかっていない。

寄り添う二つの無縁墓(2005年7月27日撮影)

 いずれにしても、これら無縁墓が私たちに何かを主張しているように思えた。

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