最盛期4万だった田川市の人口は、昭和39年3月の閉山のため、25,000人に減り、市の財政は破産寸前であった。「産炭地はこれまで石炭のために苦労もし、日本の発展のために随分つくしてきたはずだ。その挙げ句は使い古しのゾウキンのように見捨てられ、残されたのはボタ山と鉱害と失業者と貧困だけ」と、当時、全国鉱業市町村連合会長だった
田川市長が怒りをぶちまけた。
その閉山から19年経った昭和58年3月、かつての三井田川伊田坑跡に田川市石炭資料館が開館された。同所の田川市石炭記念公園には、炭鉱節に唄われた2本の大煙突や伊田竪坑やぐらが当時のまま保存されている。
なお、田川市としては同所の伊田竪坑櫓等を国の重要文化財として指定を願っているところであるが、田川市石炭記念公園およびその近くにある市立田川小学校(旧・三井私立小学校)の土地が現在も三井鉱山の所有であり、「小学校の土地も含めて一括して土地を購入してくれないのなら譲渡出来ない」と、三井が譲渡を拒んでいる現状から、「田川市としては文化財指定の申請が出来なくて苦慮している」という。
三井田川炭鉱伊田竪坑櫓。明治42年完成。深さ約300メートル、高さ約23メートル。
三井山野炭鉱の凸型電気機関車(三井三池製作所製)。坑外で炭車を引っ張っていた。
再現された炭鉱住宅
女坑夫 手掘り時代の石炭採掘の様子を再現したもの。当時のきびしい坑内労働がうかがえられる。昭和8年9月1日、女子及び16歳未満の少年の入坑が法律で禁止されるようになった。だが例外として、戦時中は、出兵した夫に代わって、妻ら女性達も坑内でスコップを持って働いた。中には、落盤などで命を落とした女性も多数いた。(田川市石炭資料館より)
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