豊里炭鉱 北海道赤平市
(写真:蓑津さん提供)
 昭和電工鰍ヘ、多角経営の会社で、その石炭部門が「豊里炭鉱」であった。
 終戦により、豊里炭鉱においても、待遇改善、物資の優先配給、経営の民主化等が強く叫ばれ、1945年10月24日、 豊里炭鉱労働組合が結成された。
 1948年、会社は「昭和電工再建のため、3000人の方々に犠牲を払っていただきたい。今後の自由競争に備えて、 今回は344人の希望退職者を募集する」と合理化を組合に提示し、大量の人員整理による再建整備の道を求めてきた。  これに対し組合は、「この正月を目前にひかえ首を切られたらどうなる」と、主婦会を含めた5000人のデモ行進が 会社事務所に向かった。事務所にいた経営者らは、しぶしぶ玄関前に顔を見せ、「今回の整理案は昭和電工の再建のため に行うもので、整理該当者には気の毒だが、辞めて頂きたい」の一言を発しただけで、外は寒いからと事務所内に消えて いった。11月特有の寒さのなか、組合員の声を無視した会社の不誠意な態度を目の前にし、組合員、主婦の怒りは悔し 涙と化し、しばし立ち去る者はなかった。
 組合では、闘争委員会が開かれ、「明日26日より無期限ストライキに突入する」と決定。それは86日間にも及び、 労働史に残る闘いとなった。
 その後昭和電工は、経営権を東海産業に売却したが、炭鉱経営に経験がない東海産業は当初より資金を投入せず、出炭 は減産の一途をたどり、さらに、政府の大手企業優先と合理化政策により、これら中小炭鉱の道はけわしいものとなって いった。明治鉱業も豊里炭鉱を支援して盛り立てようとしたが、政府の無責任な石炭政策により、豊里炭鉱は再び閉山の 危機に追い込まれた。
 組合も、ヤマの再建のために低賃金に甘んじて懸命の努力をしたが、ついに1967年3月30日、臨時大会で閉山に 同意した。
 こうして、昭和12年7月1日昭和電工の炭山として開坑された豊里炭鉱も、昭和42年3月31日、ヤマを閉じた。
 昭和30年前後、赤平市には、住友赤平炭鉱、雄別茂尻炭鉱、豊里炭鉱、北炭赤間炭鉱の4大炭鉱があり、その他中小 の炭鉱が10〜20箇所あって、石炭都市と呼ばれていた。その当時の人口は約34000人。そんな中で豊里炭鉱は、 赤平市では3番目に大きな炭鉱として約1200名の従業員を抱えていたが、閉山時は660人となっていた。
(1992年4月発行「炭労」参照)
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