三井山野炭鉱 その3  福岡県嘉穂郡稲築町宮地

 75年の歴史を持つ三井山野炭鉱は昭和48年3月30日閉山された。
 その間の昭和40年6月1日、山野炭鉱ガス爆発事故があり、237名の死者と27名の一酸化炭素中毒者を出した。
 その2年前の昭和38年11月10日、三井は、福岡県大牟田市の三池炭鉱三川鉱で炭塵爆発事故で458名の死者と839名の一酸化炭素中毒者を出しているわけであるが、山野炭鉱ガス爆発事故における一酸化炭素中毒者の数は三池炭鉱と比較して極端に少なかった。
 その理由は何故なのか?数年後、朝日新聞がその理由についてスクープした。三井は、三池炭鉱三川鉱炭塵爆発事故で一酸化炭素中毒者の数が余りにも多かったことによる反省(?)から、その2年後に起きた山野炭鉱ガス爆発事故においては救出活動を故意に遅らせた結果による、というものだった。三池における一酸化炭素中毒者への補償問題が長引いていることに三井は危機感を抱いていたというのだ。
 そのスクープ記事が本当であるのなら、稲築町もまた、炭鉱で栄え炭鉱で泣かされた町と言える。炭住から見える慰霊碑の丘には、そういう悲しみが漂っていることを忘れてはならない。

平の40周年記念公園(2000年3月27日撮影)

 

慰霊碑(2005年7月28日撮影)

 三井山野炭鉱の中央山神社があった小高い丘に、炭鉱事故で亡くなった人たちの霊を慰めるための「慰霊碑」が建っている。この慰霊碑を説明する文の中に、「散華(さんげ)」という言葉が使われている。
 仏教の世界における散華とは「寺院で法要を巌修する時に、諸仏を供養するために花が撒かれる。これを散華という。元来は蓮弁をはじめとする生花が使われたが、いつのころか蓮の形をかたどった色紙が代用されるようになった。」とある。
 しかし、慰霊碑を説明する文の中に使われている「散華」は、そういう意味ではあるまい。「華々しく散る」ーそう受け止められる。それは、戦争で華々しく散っていったと美化されて語り継がれる特攻隊員を連想させる。
 山野炭鉱ガス爆発事故の犠牲者237名が華々しく散っていったとでも言うのだろうか。「散華」という、一見かっこよく受け止められ易い言葉で、真実をうやむやにしようという意図がそこにあるように思われてならない。
 ちなみに、「慰霊碑」の字体は、「内閣総理大臣 佐藤栄作書」とある。

「三井山野鉱業所中央山神社跡」記念碑
(2005年7月28日撮影)

三井山野鉱業学校練習坑道(2005年7月28日撮影)

 練習坑道では、坑内の木枠組や採鉱技術を学んだり、坑内爆発や坑内火災にそなえた災害救助訓練が行われた。なお、三井山野鉱業学校は昭和36年1月閉校された。

馬頭(ばとう)観音(2005年7月28日撮影)

 明治から昭和の初め頃まで、石炭運搬が機械化されるまでは馬が坑内外での石炭運搬を担った。神経質な特性を持つ馬たちにとって、坑内での作業は大変過酷なもので、週に一度だけ休養のために坑外へあがることができたが、深い所で使われる馬たちは死ぬまで二度と太陽の光を浴びることがなかったという。
 こうした馬たちの供養および安全祈願のため馬頭観音が建てられた。観音の頭には馬の頭部が見られ、右手にはヨキと石刀、左手には火薬つぼとノミを持っている。
 平の40周年記念公園に接する境内には、13の仏とともに高さ約85pの馬頭観音がまつられている。これは坑外で馬をつかっていた人が供養のため作ったもので、その台座には昭和13年10月吉日と刻まれている。
 (稲築町ホームページ参照)

BACK