麻生鉱業


 麻生会社と政治との関わりは古い。麻生グループの創業者 麻生太吉は明治5年、 目尾御用山にて石炭採掘事業に着手成功し、嘉穂銀行・九州鉄道を創業、筑豊有数の炭鉱主として頭角を現し 明治32年には衆議院議員に当選した。

 同人は大正12年には早くも朝鮮からの労働者移入に目をつけ、坑夫として低賃金で雇い利益をあげていった。しか し、圧制のヤマとしても名をはせ、労務管理が余りにもきびしかったため、昭和7年、朝鮮人坑夫たちによる麻生赤坂 炭坑労働争議が起きた。

 その時の様子を当時の「特高月報 昭和7年8月分」(内務省警保局保安課・昭和7年9月20日発行)は次のとおり 記録している。
 「4.麻生炭坑労働争議状況ー福岡県下飯塚町所在株式会社麻生商店経営の炭坑に於て、8月14日より鮮人 坑夫約90余名は『暴力行為ヲ以、坑夫ヲ酷使、虐待スル悪習ヲ絶対厳禁セラレタシ』『坑内労働十時間法ヲ厳重 履行サレタシ』『賃銀三割値上セヨ』外16項目に亙る歎願書を提出し、社会大衆党福岡県聯合会並同系各組合 の指導統制下に争議団を組織し頑強に罷業を継続し、ビラ、声明書、ニュース等により同坑坑夫の参加並其の他 付近炭坑に働きかけ、漸次参加人員を増し8月28日現在に於いて其の数425名に達せり。一方炭坑側の態度は 頗る(すこぶる)強硬にして事件は益々悪化の傾向にあり。・・・・其の対立抗争は益々激化し、何時争議団側と一大 衝突を惹き起こするやも難計情勢に在るを以て厳重警戒中なり。」

 これに対し永末十四雄氏はその著書「筑豊賛歌」(昭和52年5月 日本放送出版協会発行)の中で、
 「麻生における朝鮮人坑夫争議の要求項目も、ことごとく人権抑圧にたいする抗議を意味しないものはない。不況 のなかで大資本の攻勢をうけながら、麻生系炭坑が着実に出炭高を増大させた秘訣が、納屋制度よりもっと高度に 管理化された労働の搾取であるのを、はしなくも暴露した」と述べる。

 昭和16年、商号を株式会社麻生商店から麻生鉱業株式会社に改称。昭和44年、麻生鉱業株式会社吉隈炭坑 が閉山。

 昭和53年3代目社長の座に着いた曾孫の麻生太郎もまた翌年衆院選出馬当選。2003年自民党の政調会長時代 には朝鮮の「創氏改名」について「朝鮮の人たちが望んだから始まったのだ」と発言し批判を浴びたこともあった。
 なお、麻生太郎の祖父は元内閣総理大臣吉田茂であり、戦後、麻生鉱業は吉田茂の資金源でもあった。




株式会社麻生 飯塚病院(元炭坑病院)(2004年8月4日撮影)

 飯塚市芳雄町に株式会社麻生 飯塚病院がある。
 明治44年、麻生炭坑病院として飯塚病院竣工、大正7年に診療が開始された。当時は、炭鉱の事故にあった人たちの治療が主で あったが、大正9年から一般にも診療を開放した。ちなみに炭鉱労働者の疾病は、外傷・脚気・呼吸器・胃腸病が多かったという。 外傷は落盤事故等によるもので、呼吸器はじん肺によるものが多かった。
 だが同病院は現在も「じん肺」をじん肺と診断しないことでも有名らしい。

皇室とも縁のある麻生家邸宅(2004年8月4日撮影)

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