日鉄二瀬鉱業所高雄第2坑跡 福岡県飯塚市伊岐須 (2007年4月2日撮影)

 日鉄二瀬鉱業所高雄第2坑跡地は現在高雄団地と呼ばれる閑静な 住宅地になっている。ここに炭鉱があったという当時の面影を伺い知ることは無きに等しい。
 あえて言うなら、「倶会一処」という慰霊碑が住宅地の片隅にひっそりと建っているだけだ。しかし同団地の人々にもあまり知られていない場所のようである。

 2002年7月、初めてここを訪れたとき、どうしてもその場所がわからなかった。団地の中で見かける人に片っ端から尋ねてみるが、誰一人答えられる人はいなかった。忘れられた空間のようである。そこを今回3度目にして、炭鉱史家横川先生のご協力を得、訪ねることが出来た。

 同所は元々飯塚市が管理する共同墓地だったが、「流れ坑夫」と呼ばれた炭住街の人々の墓石も多くあったことから、土地の人たちはここを「旅人墓」と呼んだ。
 もののついでに言うなら、「流れ坑夫」に対して「村方坑夫」という言葉がある。「村方坑夫」とは、地元出身の炭坑夫のことをいう。それに対して「流れ坑夫」とは、各地の炭鉱を転々と流れ歩かざるを得なかった人たちのことを指し、地元の人々は「流れモン」「他所モン」などと呼んでひとつ下に見ていたこともあったようである。しかし同じ炭鉱で働く者同士、お互い過去のことは聞かないというルールのようなものもあって、それが「川筋気質(かわすじかたぎ)」と呼ばれた。
 そんな「旅人墓」も今、誰一人としてお参りに来る者もいない無縁墓となり、その者たちの霊を慰めるかのように、その中心に慰霊碑が建ち、彼らを見守っている。

「旅人墓」

 慰霊碑の後ろに建つ小屋は民家の一部である。その畑で農作業をする年配の男性に声を掛けてみた。「ここにある慰霊碑は、あちこちの竹薮などに散らばっていた遺骨を住宅地建設のためここに集め、この慰霊碑が出来た」という。
 また、「昔、炭鉱だったここには、各地から人々が職を求めてやってきた。ここの無縁墓はそういう人たちの"旅人墓"だと言われている。その地に慰霊碑を建てた。中には朝鮮人の遺骨もあったらしい。」と男性は語る。
 そういうことからか、いつの間にか「倶会一処」は強制連行された朝鮮人坑夫たちの無縁墓とされ、「時々バスで見学に来る学生たちなどの一団もある」そうな。

「倶会一処」

 「倶会一処」と書かれた無縁墓の裏には「昭和44年1月、共立鉱業 栗原利男・明星菊一 建立」と刻まれてある。二人は共同で共立鉱業を経営。主に、閉山となった炭鉱の後始末をして造成するという仕事を引き受けていた。 明星菊一さんはその現場責任者でもあった。ある時、3000坪もある日鉄二瀬鉱業所高雄第2坑跡地を造成中、あちらこちらからたくさんの人骨が出てきて仕事どころではなかったという。これに心を痛めた明星菊一さんらは「供養せないかん」ということで、仕事を一時中断してすべての遺骨を作業員に収集させた。そして日鉄ではなく、彼等が「倶会一処」という無縁墓を建立し霊を慰めた。炭鉱事故等で亡くなった日本人坑夫や朝鮮人坑夫たち、また、大きさから多くの赤ん坊の遺骨もあったという。

納骨されている無縁仏

 慰霊碑の裏側下部には納骨場所があり、中には遺骨が納められていた。骨壷に納めきれず、ビニール袋に詰められた人骨、また土間にじかに山積みされた遺骨が多くあった。この遺骨たちは何を語らんとしているのか。

高雄団地内

 「倶会一処」という慰霊碑は、「3回移転しており、最初は現在の団地内ロータリーの中央あたりにあった」。

高雄団地手前に残る炭鉱遺構

 

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