2005年7月26日午後11時、滋賀県彦根市を車で発つ。名神から中国道へ入り、浜田自動車道へ乗り換え、翌27日午前4時30分、瑞穂IC手前の寒曳山PAに到着。ここで明るくなるまで1時間仮眠。そして瑞穂ICから旧石見町へ入る。
石見町は、昨年10月1日、瑞穂町・羽須美村との合併により「邑南町」と名前を変えたが、その以前の昭和30年、中野村、矢上村、日貫村、日和村、井原村の旧五ヶ村が合併して石見町を名乗った。人口6,761人、世帯数2,066世帯という過疎化と高齢化に悩む地域であったが、現在はふるさとリゾートづくりなどによって活力ある農村へと変貌しつつあるという。 この旧五ヶ村から、多くが明治から大正時代にかけて福岡県筑豊地方にあった貝島大之浦炭坑等へ出稼ぎに出ていた時代があった。
山あいの旧石見町は、島根県のほぼ中央に位置し、標高700〜800m前後の山並みで囲まれ、平地が少ない地域である。したがって耕作面積が少なく、明治・大正時代の農民の生活は困窮を極め、タタラと呼ばれる製鉄所の副業に頼っていた。鉄穴(かんな)流しと呼ばれ、山から砂鉄を採取し鉄分を取り出す仕事をしていた。 そんな折の大正6年12月21日貝島大之浦炭坑桐野二坑で369名の死者を出すガス爆発が発生した。そしてこの時石見の五ヶ村からも91名の村人が一度に亡くなったのである。この時の村人たちの悲しみは如何ほどであったことか。その悲しみの痕を墓碑に尋ねてみた。 (参考資料:「写真万葉録・筑豊10巻」葦書房)
旧石見町
旧矢上村の森脇さん
早朝畑仕事に精を出す老夫婦をやっと見つけ、九州の炭鉱ガス爆発事故で犠牲になった村人のお墓のことを聞いてみた。名前を森脇さんと言い、自宅前に建つ墓を示しながら、「ずっと昔のことだから、九州の何という炭鉱かは知らないが、私の祖父が炭鉱事故で亡くなったということは聞いている。それ以上は知らない。」と話してくれた。
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