「タタラ(砂鉄)を採掘した跡に田畑が作られた。それまでは、ここ森脇谷はその地名のとおり、急斜面の谷間であったことから田畑もなく、生活は出稼ぎに頼るしかなかった」。出稼ぎ坑夫の墓の場所を尋ねる私に、70歳位の村の女性がそう語る。 ここへたどり着くまでに何人の人に尋ねたことか。「写真万葉録・筑豊」という写真集を見せながら墓の場所を尋ねる私に、皆一様に親切に答えてくれる。自分の村のことが載っている写真を熱心に眺めて、「この人はどこそこの誰それだ」とか、「この人は死んでもういない」などと言いながら、「この先の森脇谷へ行ってみなさい」と優しく教えてくれた。
旧矢上村森脇谷
森脇谷の墓地(左側奥)
上源與茂一 24歳
上源與茂一の墓碑銘
大正六年十二月二一日筑前大ノ浦炭坑に於テ死シタル為坑主ヨリ香料トシテ金七百円下附セラレタリ
與茂一のおじ 上源七松 52歳
上源七松の墓碑銘
大正六年十二月二一日筑前大ノ浦炭坑に於テ死シタル為坑主ヨリ香料トシテ金八百円下附セラレタリ
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