貝島炭鉱 その2  福岡県鞍手郡宮田町上大隈

 一世紀にわたる筑豊石炭産業を最後まで支えた貝島炭鉱も、昭和51年8月ついに波乱多き90年の歴史を終わる。
 宮田町の経済的支柱として果たした役割は大きいが、今やその功罪を問う声も低くはない。新しいエネルギーの開発や、無限の可能性をもつ宮田町民の復興の意欲は、まもなく石炭を、そして貝島という存在を過去の中に風化してしまうだろう。
 今こそ貝島炭鉱とこれに関連あるいろいろな記録を残しておくことは、現代に生きる者の責務というべきではなかろうか。
 (宮田町石炭記念館パンフより)

(2003年9月撮影)(写真は貝島炭鉱発祥の地案内板より)

 明治18年11月3日鞍手郡上大隈村代ノ浦に開坑した貝島炭鉱大之浦坑

貝島炭鉱発祥之地記念碑(2003年9月撮影)

(2004年8月3日撮影)

 その「貝島炭鉱創業之地」記念碑の裏に、遠慮がちにもう一つの記念碑が建っていた。
 その中に書かれている「炭坑太郎」は、「タンコタレ」「タンコンモン」とも言われ、炭坑労働者に対する蔑称。

 「炭鉱労働者は長い間社会から賤しめられ一般社会からへだてられ、人間としての扱いもうけなかった。その後しだいに社会的地位が高まり、生活水準もあがってきてもかれらを賤視する傾向はなかなか抜けなかった。その一つの現れが炭鉱労働者の呼び方で「炭坑太郎」などがそれである。戦前の小作農民はひどく窮乏して、社会的地位も非常に低かったが、かれらはそれでも 「炭坑太郎」でないという自負心をもっていた。もちろん公には初め「坑夫」あるいは「鉱夫」から大正時代の「稼働者」をへて、昭和の時代には「鉱員」と称するように変わったが、しかし炭坑労働者を賤視する偏見とそれを表わした俗称は戦争が終る頃まで根強く残っていた。」(山田市誌より)

 それでもあえて、「炭坑太郎」を名乗るこの碑の作者で元炭坑労働者でもあった松木久松さんの凄さを感ずる。「おー、俺は炭坑太郎たい。そのどこが悪かつか。労働は理屈じゃなかよ。理屈ばかりでは飯は食えんばい。」という松木久松さんの声が聞こえるようである。

(2003年9月撮影)

 明治21年開校した貝島大之浦小学校跡地に、昭和52年5月宮田町石炭記念館が開設。その一角に貝島大之浦第2坑の坑口記念碑が建っている。

BACK NEXT