貝島炭鉱  福岡県鞍手郡宮田町 (2004年8月3日撮影)

 福岡県鞍手郡宮田町大字宮田所在の宮田町役場横に、2つの記念碑が並んで建っている。
 大きい方が「謝恩碑」、小さいほうに「俵口和一郎頌徳碑」と刻まれている。「頌徳」と書いて「ショウトク」と読む。「善行をほめたたえる」という意。「頌徳碑」は、その善行を誉めたたえ、そのことを後世に伝えるために建てた碑のことである。しかし、この2つの碑には深い関連性があり、「謝恩碑」にあっては、朝鮮民族の屈辱を物語っているといわれている。

 大正4年に勃発した第1次世界大戦に参戦した日本は好景気に湧き、石炭産業の労働力不足を補うため、日本政府は安価な植民地の労働力に目を付け、積極的に朝鮮人労働者の導入を図った。そんな中、貝島炭鉱で最初に朝鮮人を採用したのは大正6年。その指導に当たったのが貝島炭鉱坑長俵口和一郎氏で、朝鮮人坑夫から慕われていた人物であったといわれている。その彼が昭和4年坑長を退職する際、朝鮮納屋の頭領たちが朝鮮人仲間に呼びかけて俵口和一郎坑長の記念碑を建てようとした。しかし会社側は、「個人の記念碑は困る」と反対した。その時頭領たちは、貝島炭鉱に対しても何らかの記念碑を建てるからと約束して、「俵口和一郎頌徳碑」を建てたのである。
 そして、昭和10年、朝鮮人労働者が働いていた露天坑が閉山したのを機に、先の約束どおり、朝鮮人頭領らは会社に対する「謝恩碑」を建てた。だが、この「謝恩碑」については、決して彼らの本意ではなかった。
 しかし、その気持ちとは裏腹に、「謝恩碑」建設の祝賀会は盛大に催され、県知事、地元警署長、各界の代表らが招待される中、「内鮮融和の見本」としてマスコミも大きく取り上げ全国に報道した。

 その後、昭和16年、日本は対米戦争に突入、やがて「徴用」という名の下、強制連行してきた朝鮮の人々を「謝恩碑」の前に集めては、「この碑はお前たちの先人が我が社に対して恩義を感じて建てたものである」などと訓示を垂れ利用した。
 なお、貝島炭鉱は1974年(昭和49年)閉山、最盛期であった昭和30年の宮田町人口5万1795人をピークに年々減少し、平成16年5月末現在、人口は2万1322人となっている。

謝恩碑(左)と俵口和一郎頌徳碑(右)

 「謝恩碑」および「俵口和一郎頌徳碑」は、当初、貝島炭鉱露天採炭場跡に建立されていたが、 道路建設工事のため撤去され、そのまま捨てられることになっていた。しかし、これを知った市民グループの保存要望により、 宮田町役場横に移設されたものである。

「謝恩碑」に刻まれた朝鮮人労働者らの名

「俵口和一郎頌徳碑」に刻まれた朝鮮人労働者らの名

(貝島炭鉱発祥の地案内板より)

 貝島炭鉱露天採炭場では多くの朝鮮人労働者らが従事した。現在はため池になっている。

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