宇部興産且R陽無煙鉱業所  山口県美祢市大嶺町奥分

 JR美祢線の美祢駅から北西約5kmのところに美祢市立麦川小学校がある。その近くに、宇部興産グループの宇部サンド工業株式会社があり、その広い駐車場、または空き地のような所に現在宇部興産且R陽無煙鉱業所の坑口が残っている。

 周辺は、かつて大嶺炭田として賑わいを見せた地域であったが、1960年(昭和35年)の麦川小学校児童数1050名であったのが、2005年9月現在の児童数26名に激減変化したように、ここもヤマの閉山により活性化を失った地域のひとつであろう。炭鉱町として一番栄えたころは、約3800人が働き、その家族を含めた約1万人が生活していたという。

 また、同所には明治38年に開通した国鉄美祢線大嶺支線が走り、貨物列車が石炭等を運び出したりしていたが、1997年3月31日閉鎖された。その大嶺駅跡は現在麦川郵便局となっている。

宇部興産且R陽無煙鉱業所跡。左側に坑口が見える。(2005年7月27日撮影)

材料斜坑坑口(2005年7月27日撮影)

閉鎖された材料斜坑坑口(2005年7月27日撮影)

坑口横の沈殿槽。石炭を水洗いし汚れた水をタンクに流し込み、ろ過した水を川に流していた。
(2005年7月27日撮影)

山陽無煙鉱業所跡近くの山頭火歌碑「炭車が空を 山のみどりから みどりへ」(2005年7月27日撮影)

 酒におぼれた放浪の乞食坊主と陰口を叩かれた山頭火は、本名を種田正一と言い、明治15年12月、山口県佐波郡西佐波令村に生まれた。昭和15年10月11日、愛媛県松山市にて59歳で死亡。かつて、同歌碑から南1キロの所にある「大嶺酒造」を訪問したことがあり、その縁でここに歌碑が建てられた。山頭火は炭鉱の町を愛した一人でもあった。

白岩簡易郵便局(2005年7月27日撮影)

 麦川小学校前のY字路を右に進んだ所にある大嶺町白岩の白岩簡易郵便局真向かいに、広島捕虜収容所大嶺分所があった。そしてその奥まった所に鎮魂碑が建つ。

 昭和17年11月26日、八幡仮捕虜収容所宇部分所山陽派遣所として、山口県美祢郡大嶺町(現・美祢市)白岩に開設。昭和18年1月1日、福岡捕虜収容所宇部分所山陽派遣所に改編。同年3月1日、第6分所と改称。同12月1日、第1派遣所と改称。昭和20年4月13日、広島捕虜収容所に移管、第4派遣所となる。同年8月、第6分所と改称。
 使役企業は宇部興産山陽無煙炭鉱業所。終戦時収容人員472人(米兵288、英兵184)、収容中の死者31人。

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