大阪俘虜収容所第8分所跡  滋賀県野洲郡中主町野田(2006年2月2日撮影)

 滋賀県内には戦時中、大阪俘虜収容所の分所が3箇所開設されていた。第8分所が野洲郡中主町野田 に、第9分所が神崎郡能登川町に、第10分所が坂田郡米原町にあった。
 いずれも昭和20年5月18日に開設され、第8分所の捕虜たちは琵琶湖沿いにあった野田沼の干拓作業と干拓地での農作業に従事さ せられていた。
 終戦時の第8分所収容人員はオランダ兵196人で、収容中の死者はなかった。

(野田公民館前案内板より)

 中主町は琵琶湖側に位置し、その昔、旧野田村に野田沼があった。野田沼は灌漑(かんがい)用水、 或いは漁場として、土地の人たちに親しまれてきた。しかし戦時中の昭和20年、国・県の施策により、食料増産のため埋め立てら れて干拓地となった。その作業に従事させられたのが戦時中俘虜となったオランダ兵だった。

大阪俘虜収容所第8分所跡 (現・野田墓地)

 大阪俘虜収容所第8分所があった場所は現在、野田墓地となっている。

 昭和20年当時10歳だったという地元の人の話によると、「収容所宿舎にはオランダ兵が収容されていた。その近くへ 興味もあって遊びに行くと、オランダ兵が "マミ、マミ" と言いながら塀の中からよく手を差し出してきた。"マミ" とは、 日本語が訛って豆のことを指しており、畑の豆を採って与えると喜んでいた。そのせいか、終戦直後、オランダ兵のために連合 軍の飛行機がパラシュートで落としていった食料等の物資を、今度は逆に私たちにくれたりした。」という。

 同野田地区には、当時収容所の憲兵だったという田中さん(90歳過ぎ)が今も健在でいる。田中さんは捕虜たちに暴力を振舞 うこともなく親切であったという。

 また、「9月頃帰国したオランダ兵の代わりに、朝鮮の人たちが干拓作業に従事するようになり、その人たちの10軒ほどの 集落が近くにできた。それはオランダ兵のような強制労働ではなく、雇用されての仕事であったようだ。」と話してくれた。
 俘虜収容所は終戦後間もなく取り壊され、更地となってしばらくの間、サーカスや芝居小屋が建ったりして賑わった時も あったが、昭和27,8年頃、野田村の共同墓地になったという。

 その野田墓地の記念碑にも、「この墓地は古来から野田沼として水溜りで灌漑、或いは漁場と成り水と共に親しんで きました。戦中、国・県の施策に乗じ食料増産のため埋め立てられ干拓地となりました。終戦後共同墓地が設置され・・・」 と書き記されてある。

俘虜収容所時代の井戸

 現在共同墓地となってしまった俘虜収容所跡には、当時使用されていた井戸が今も残っている。
 当時、俘虜監視員だった田中さんの日記にも、「キャンプ跡は現在野田墓地に今も尚残る井戸は彼等が使用した唯一の遺物 であって、その井戸水には尚彼等の顔々顔が写っているように思えて来る。」(中主町史より)と書き記されている。

大阪俘虜収容所第8分所
(昭和20年9月7日撮影、2004年発刊「捕虜収容所補給作戦」より)

 先の田中さんによる当時の貴重な記録が、手記「オランダ俘虜収容所」という形で中主町史に 残されている。

 「・・・俘虜監視員を命ぜられた。勿論京都歩兵第9連隊から軍曹を長とした十余名の兵が派兵され駐屯していた。 彼等の仕事と言えばトロッコに依る築堤、ポンプ小屋の建設、干し上がった湖沼の地均等々がその主たる作業であった。
 平日の食事は毎日二人が竹籠を背負って野外から取ってきた雑草と、塩で味付けした一個の握り飯が総べてであった。
 かなりの重労働の為、栄養失調も加わり、皆、やせ細り平均20sであった。服装は着替えもなく、全く乞食同然の姿 であった。
 ・・・B29の来襲は日を追って数を増し、・・・若し、万が一の場合はわれわれとオランダ兵との関係は逆転する。 一体どんな事が起こるかと、実の所、マジメに心底から心配したものである。
 ・・・オランダ捕虜とは言え、白人はごく少なく、大半はジャワ島住民の召集兵から構成されていた。
 ・・・8月16日終戦の翌日、キャンプを訪ねてみた。昨日と今日とは勝者と敗者は逆転しており、何となく身の引き締 まる雰囲気を覚えた。野田の女達は彼等を恐れ親戚知人を求めて一人残らず逃げ出していた。白人軍曹は僕に近寄り、 "田中、進駐してくる軍はアメリカ軍である。恐れるか。君に証明書を書いてやる" と言って用紙の裏に目の前で何か 書いてくれた。"虐待なし"という意味のものであった。
 ・・・収容所は高い板塀に囲まれた3棟から出来ているバラック建物で、その屋根にPOWと書かれた大きな幕が置か れている。・・・飛行機に位置を知らせる為のもので、P・O・Wは戦争の囚人の頭文字であるという。
 8月20日頃、超低空の米輸送機が幾回もその上空を旋回して、五色の落下傘がドラム缶を吊るし、一度に14、5個投下 された。食料、衣類に至るまで生活必需品である。こんなことが4、5日続いたので野田の人々はタバコ、子供にはチュー インガム、チョコレートを誰もが手にするようになった。
 9月20日頃夜、私宅の雨戸を叩くものがあり、二人の白人兵が訪ねて来て、我々は明日、帰還する。したがって明日の 食糧が不要になったのでと言って40sの牛肉とバケツ一杯の砂糖をあげるという。・・・彼等の心の美しさに泣けてきた ものだった。」

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