最盛期4万だった田川市の人口は、昭和39年3月、三井田川炭鉱が閉山すると25,000人に減り、市の財政は破産寸前となった。「産炭地はこれまで石炭のために苦労もし、日本の発展のために随分つくしてきたはずだ。その挙げ句は使い古しのゾウキンのように見捨てられ、残されたのはボタ山と鉱害と失業者と貧困だけ」と、当時の田川市長は怒りをぶちまけた。
写真奥に見える2本の大煙突は三井田川伊田坑跡。現在は、昭和58年3月開館された田川市石炭資料館となっている。
廃屋が目立つ飲み屋街
廃屋が目立つ飲み屋街
古きよき時代を語る栄町 先の信号交差点を右折し、少し歩いていくと大きな二股がある。この二股を右に入ると、両側に豪華な構えの家々が多く建ち並ぶ。ここが栄町。1階に格子窓、2階に手すり。「ここが色街であった名残り」であるという。大正末期から昭和初期にかけての建物であるらしい。これら古い時代の雰囲気を残す家々が、かえっていま新鮮に思えてくるから不思議である。
古きよき時代を語る栄町 ここへ案内してくれた人がおもしろいことを言った。「交差点から駅寄りの飲み屋街は料金も安く炭鉱労働者等で賑わっていたが、交差点から山手側へ坂道を高く上るにつれて料金も高くなる色街だった」と言い、「三井鉱山幹部職員らによる接待場所にもなっていた」そうである。
古きよき時代を語る栄町
「青春の門」
私が田川で一泊したビジネス旅館「梅若荘」も、昔は色街の料理旅館屋だったという。
料理旅館時代の名残りを残す「梅若荘」の元宴会場
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