麻生吉隈炭鉱無縁墓地跡 福岡県嘉穂郡桂川町吉隈


 

麻生吉隈炭鉱無縁墓地跡

 麻生吉隈炭鉱の坑口等があった現在の広場の真正面に桜の木が植わった場所が ある。その奥に小屋のような建物がある。中をのぞくと祭壇のような棚がこしらえてあった。

 「あの小屋のような建物は何ですか」と先のご老人に再度尋ねてみた。同人は長い沈黙の後、ポツリポツリとこう証言した。 「あそこはな、元お墓だった所で、造成したとき、たくさんの遺骨が出てきてな、小屋はそのときの遺骨の仮置場だったとよ」。

同上

 ある郷土史研究家らの調べによると、昭和60年、炭鉱跡に集会場を建てるための工事中、 5、6体の遺骨が出てきた。これをきっかけに地元の人が麻生側と交渉して付近を1メートル以上掘り返した結果、埋葬数は 全部で504体あったという。
 その内容は、「炭鉱事故で亡くなった朝鮮人坑夫ばかりではなく、日本人坑夫もいれば戦争俘虜もいただろう。また、骨格 などからして女性や子供もかなり埋葬されていたようだ」と語られる。
 麻生吉隈炭鉱には朝鮮人寮の他、少し離れた場所に福岡俘虜収容所第26分所があり、同炭鉱で使役させら れていた。戦時中の坑内の保安状態は悪く、落盤、ガス、出水等の事故で、毎日のように死者が出たらしい。また、 当時の食料事情から、栄養不良などにより亡くなる乳幼児も多かったらしい。
 なお、同炭鉱では昭和11年1月25日、坑内火災により44名の遭難者(死者20名、重傷者3名、軽傷者12名、 行方不明9名)を出している。そのほとんどが朝鮮人坑夫であったと当時の新聞は報じる。(昭和11年1月27日付け福岡日日新聞記事参照)

共同墓地

 先の無縁墓地跡から発掘された遺骨は、同所から約500メートル離れたここ共同墓地 に麻生産業が納骨堂を建て安置した。案内がなければわからない場所である。

吉隈炭坑共同墓地納骨堂

 「吉隈炭坑共同墓地納骨堂」と書かれた石柱裏側には「昭和36年3月1日建立」 と記されていた。

同上裏側

 納骨堂裏側には、麻生グループの社章を刻印した石柱が立てられていた。

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