昭和44年、吉隈炭鉱が閉山した後には広大な土地が残された。会社はそこを住宅団地
に造成して売りに出すことにした。よって邪魔になった吉隈炭鉱災害犠牲者の碑を昭和55年撤去した。したがっていまある
「徳香追慕碑(とっこうついぼひ)」は昭和57年一部地元住民等の強い要望によって再建されたものである。 徳香追慕碑
「徳香追慕の碑によせて
この徳香追慕碑は 吉隈炭坑の災害犠牲者を祀ったものである 日本の大陸侵略政策として日韓併合が強行され
祖国を追われて渡航してきた朝鮮人労働者たちが経済恐慌下を生きるため人々が産炭地筑豊に集まってきた 生産
優先のため過酷な労働が強いられ炭坑災害は増加していたが こうした情勢の中で昭和11年1月25日坑内火災で
犠牲となった29名(朝鮮人25名、日本人4名)の慰霊のため 徳香追慕碑は建立された その後戦争の激化とともに
強制連行・強制就労の犠牲者も合葬されたが 反面忠魂碑とも呼ばれ「銃後の護り」を祈願するなど戦争に利用され
ていった 戦後碑はかかる歴史的背景から敬遠され石炭終焉とともに放置されていた 1980年ころ会社は団地造成の
ため碑を撤去しようとした 住民にとって碑は炭坑の重要な遺跡であり 祖父の痛みの歴史であるとして再建を強く要望し
1982年5月新たな徳香追慕碑がここを聖地として再建された 戦争のあやまちを再び尾起こさないためにも犠牲となった
人々を祀り供養することは児孫のつとめであると発起した地元婦人会たちが中心となって平和と友好の輪の広がりを念じ
ながら春秋の彼岸と盆会に供養祭が行われている
1985年師走
徳香追慕の碑によせて 碑の裏には、昭和11年1月25日麻生吉隈炭鉱坑内火災で亡くなった朝鮮人坑夫25名、 日本人坑夫4名の名が記されている。同犠牲者の年齢は、19歳1名、20代12名、30代11名、40代3名、50歳1名、68歳 1名の計29名とある。
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